渓流釣り師はエゴイストだと思ったが、それでも会いたいアマゴがいる

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「渓流釣り師はエゴイストだ」

 

そう思ったのは、ネットに収まったアマゴをニヤニヤと眺めていた時の事だ。

 

今回は放流されていない細沢で命を繋いでくれているアマゴを釣りに来たのだ。

 

年に1回か2回、そのアマゴの顔やパーマークが見たくて釣行する。

 

僕にはそんな川がいくつかあるのだ。

 

そこでふと思った。

 

渓流釣り師(僕)は魚の命に対して自分基準の価値を付けている。

 

例えば僕は、放流されたアマゴ5匹より10匹より、

 

放流の無い川で命を繋いでくれているアマゴ1匹に価値を感じる。

 

細沢で必死に生き抜いて、

 

痛々しい姿になっているアマゴを釣って、

 

ネットに収めてニヤニヤと眺める。

 

そんな僕の姿は渓流釣りを知らない人にはまるで理解されないだろう。

 

まるで特殊な性癖のようでもある。

 

細沢で必死に生きているアマゴを針にかけて釣ること自体、

 

他の人には理解されないだろうし、逆に非難されるかもしれない。

 

だけど僕は渓流釣りが好きで、行きたくなる川や会いたくなる渓魚が居る。

 

渓魚と出会うのに、対話するのに、ロッドとリールとルアーという手段しか持っていない。

 

だから僕は渓魚を釣るのだ。

 

やっぱり渓流釣り師はエゴイストだと思った。

 

もしくは渓流釣り師の『原罪』とでも言うべきか。

 

でも待てよ。

 

人間だってアダムとイブが犯した原罪を背負っているという話もある。

 

イエス・キリストが十字架を背負いゴルゴダの丘を登って磔(はりつけ)にされた事で、原罪を償ったとされている。

 

人間が『原罪』を背負っているのだから、渓流釣り師が『原罪』を背負っていても当然かもしれない。

 

十字架ではなくロッドやリールを背負って、ゴルゴダの丘ではなく山を登る事が、贖罪にはならないのだろうか。

 

そんな気持ちにさせてくれた何匹かのアマゴは痛々しい姿だが綺麗だった。

 

最初に釣れたこの子は体の表面が痛々しかった。

 

 

動画も撮りました!

次のこの子は背中の斑点が濃く見えた。

 

 

アップの写真。

 

 

次のこの子は背中に傷のようなものがあった。

 

 

↓動画です。

最後のこの子は傷はなくてパーマークの中が欠けていた。

 

 

↓動画

 

ルアーは試作の50㎜ダートミノーだ。

 

 

ダートミノーには手応えを感じてきた。

 

ちなみに本流で急成長したと思われるアマゴと今回の渓流のアマゴはビジュアルがもう別の生き物みたい。

 

 

ヤマメやアマゴやイワナの個性が楽しい。

 

会いたくなる渓魚がいる川がいくつもあるのって、幸せってことじゃないかな?と思った。

 

今回はいつもと違ってテンション低めのブログになってしまったのだが、

 

ゴールデンウィークが終わったせいにしてビールを飲んで寝てしまおう。

 

と思った僕なのであった。

(使用タックル)

ロッド:カワセミラプソディKWSM-S49L

リール:16ストラディックCI4+C2000HGS

ライン:アーマードF+PRO 0.4号

リーダー:バリバス トラウト ショックリーダー 30m 1.5号

ルアー:不器用ルアーダートミノー(試作)

 

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