渓流ルアー、トラウトルアーという、「対話」

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トラウトルアーブログ

 

秋が終り、もう冬だ。

秋というのは季節柄、色んなことを考えやすくなるものだ。

僕もルアーを作りながら、色々と考えていた。

 

この前、渓流ルアー釣りの魅力について語った。

それでまたかと思われるかもしれないが、渓流ルアーについての話なのだ。

 

さわりに少し僕の話

 

今回語ることにリンクしているので、まずは僕の話から。

 

僕は手先が不器用だが、人間関係も非常に不器用なのだ。

ただ、人と喋るのが苦手という訳ではない。

営業や、接客販売もしていたし、「笑顔で話す」とか「人前で話す」という部分では出来る方だと思う。

 

ただ、そういう表面のことではなくて、人との距離の取り方、縮め方などなど。

深く付き合ったり、長く付き合ったり、そういった関係のところに問題があると思っている。

 

ちなみに嫁には、

「KY」(空気読めない)とか、

「コミュ障」(コミュニケーション障害)とかはずっと言われている。

 

最近嫁に言われたことは、

 

「中二病だし中二レベルかと思っていたら、愛情表現は小学生男子レベル!」

 

である。(いや、夫婦仲は良い方だと思っています)

 

まあそんな僕なので、友達も少ない。

数式で書くと、

友達まったくいない  僕  友達非常に少ない

上記のように、「まったくいない」と「非常に少ない」の間くらいである。

 

そんな僕が、渓流ルアーをしていて思うこと。

それは、渓魚たちとの「対話」に近いものだ。

コミュニケーションと言い換えが出来なくもないが「対話」のほうがしっくりくる。

打てば響く渓魚たちの反応が、心の琴線に触れるのだ。

これは他の釣りでは味わえない。

 

渓魚たちとの「対話」

 

「対話」の例えとして出すのは、「渓流ルアーの先生は渓魚」というどこかの本かブログで読んだ内容である。

渓魚の居場所は、渓魚が教えてくれるということだ。

 

実際にルアーを投げて、反応があったところが渓魚がいるところである。

渓魚の反応があるということは、渓魚が居場所を教えてくれているのだ。

だから「先生」なのだ。

(かなり大枠での話をしています)

 

ルアーを投げて、渓魚が反応する。

この単純なやり取りが、心の琴線に触れる。

渓魚に『構って頂いている』この感じ。

それがまるでパズルの最後の一ピースのように、僕の心の、いびつに欠けている部分にぴたりとはまるのだ。

 

上手く説明するのは非常に難しいのだが、

例えばの説明である。

 

ルアーを投げて反応がない。

⇒渓魚「そこにはいないよ。今日はどこについているでしょう?」と言っている。

 

僕の自作、不器用ルアーを投げて、追ってはくるが喰わない。

⇒渓魚「悪くはないんだけど、ルアーかトレースレーン、どちらが違うと思う?」

 

僕の自作、不器用ルアーを喰ってくれた。

⇒渓魚「さて、ルアーが良かったのかコースが良かったのか活性が高かったのか?」

 

まあこんな感じで、打てば響くというか、何らかの反応と「問い」を頂けるのだ。

 

「なんだお前、人と上手く対話出来ないから、魚としているのか?」

と言われると、その通りかもしれない。

 

ルアーを投げて、反応があったりなかったり、なければテンポ良く移動して次に進む。

釣り上がり、釣り下がって次々と違う場所で違う渓魚の反応を伺う。

それぞれの渓魚が、個性ある一個人のような気がする。

 

それが僕の中では「対話」なのだ。

大袈裟に言うと、渓魚との「魂の交歓」なのだ。

 

こう‐かん【交歓】の意味
ともに打ち解けて楽しむこと。「試合後、両校の選手が―する」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

 

 

この「対話」やテンポ、スピード感というか、渓流ルアーでしか感じられない部分があるのだ。

 

そんな僕は、渓魚にかまって貰えて嬉しいちゃん、かまってちゃんかもしれない。

余談だが、神聖かまってちゃんの 『ロックンロールは鳴り止まないっ』はわりと好きだ。

 

いつも思うのだが、僕は渓魚に「遊んで頂いている」のである。

目線は上からでも対等でもなく、むしろかなり下からである。

 

渓流ルアーブログ

 

 

だけど思う事もある。

釣り人が「魚釣り」、「渓流ルアー」を称賛する美しい言葉をいくつも並べたとする。

僕だっていくらでも美しい言葉を並べられる。

 

しかし、渓魚たちにとっては、釣り人は侵略者であり、命を脅かすものなのだ。

『立場』が変われば『見方』は当然変わる。

 

例えば下記のように。

「木とは人間の兄弟で、動かないのです。

木の話す言葉では、人殺しのことを樵夫(きこり)といい、

死体を運ぶ人のことを炭焼きといい、

蚤(のみ)をキツツキといいます。」

寺山修司「ポケットに名言を」の中からジャン・ジロドウ『間奏曲』より引用した。

 

 

 

 

 

じゃあ渓魚たちにとって、釣り人、渓流ルアーマンとは?

 

僕が思うに釣り人が渓流ルアーに賭けているのは、

  • 幾らかのお金と
  • 貴重な自分の時間
  • 計り知れない情熱

だけである。

 

対して渓魚は『命』を賭けているのだ。

 

それだけ賭けているものが違う中で、「対話」だの「魂の交歓」などと言っているのだ。

僕はどうしようもない人間だと思うことが時々ある。

 

僕が釣り場で出来ることと言ったら、

  • ゴミは絶対捨てない。
  • 食べない魚は出来るだけ弱らせずリリースする。

くらいか。

ちっちゃいなあ。

 

だけど、全てを飲み込んだ上で、また来年もルアーを投げるのだ。

理屈じゃないんだよ。理屈じゃ。

 

 

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コメント

  1. 右脳派釣師 より:

    「アイ、アム、エキセントリック!変わり者でいい♪」
    渓流ルアーをやる人は大抵、人と違う何か持ってます。
    熊、スズメバチ、マムシ、滑落、落石、遭難、そして何より怖い坊主!
    そんなリスクしょって渓流へ行くのですからね!

    自分に好かれてヤマメもいい迷惑だろうと思ってますがやめられないですね(^_^)
    自分はヤマメのツンデレなところが好きです!

    1. しげる より:

      エキセントリック、良い曲ですね。好きです(^^)
      数ある釣りの中で、『渓流』のさらに『ルアー』を選ぶのは変わっている人が多いかも知れませんね(^^;)
      リスクの高い釣りでもあります。
      ヤマメ、たしかにツンデレですよね。
      本当にたまにですが、デレの部分があるからやめられません(^o^)

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